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そこのみにて光輝く (2013)
2014 / 06 / 28 ( Sat )
北海道・・・道産のHでもCでもBでもHでも、んまあなんでもよろしいのですが、そんな風土でロウワーな生活してる貧相な男と女が、好都合な段取り経て出会うべくして出会って、つまづく。いろいろある。でも、あらためて光さす朝方の浜辺で出会う物語り。基本的に、世界よ、これが日本映画だ・・・と云い切りたくなるような文芸作品の典型的映画化作ではある。そういう意味では、とにかく日本的伝統、旧態依然とした邦画のマナーに則った作品と云えまいか。たとえば、あの姉弟の長屋っぽい浜辺の家屋、その屋内で繰り広げられるマンガや冗談で済ませておきたいある家庭の事情。そして若い登場人物が、程度の差などあるものの、それぞれ仄暗い過去を携えて持ち合わせて、いま顔と顔を突き合わせている。溌剌とした明るさの欠片も持ちあわせていない男(綾野剛)、八方塞がれて、春を鬻ぐしか対処しようがなく、絡み捕られて喘ぐ女(池脇千鶴)。やや軽みを与えてくれる女の弟(九州舞台の『共喰い』につづき、水辺の田舎町の倦怠を体現する菅田将暉)も、底の抜けた笑顔と振る舞いと読めてない言動で、全体覆う沈鬱としたトーンに和らぎ与えるが(撮影は近藤龍人)、最終的には彼は彼なりの論理で談判破裂させる。原作も、監督した呉美保というひとも、よくしらないのだけれど、当初この類型然とした貧乏文芸な元ネタ=原作に、そしてソツのないつくりに、白々しさと共に最高にどうでもよい気分に陥ってた。

(だいたい綾野剛の、あの無精ヒゲはなんなんだよ。そして現実から遊離したあの貧乏神みたいなキャラ造形はなんなんだよ。一方、池脇のチーちゃんの醸す相変わらずの高級さとは無縁な儚げ、可愛げ、可憐さ、肉っぽさ、いっそいや増すエロさってなんなんだよ)

本質的に、池脇千鶴って、底なし沼におりたったまま出られぬ白鳥でしょ。ファニーフェイスやぷっくりとしたB地区(半身を起した有り体な描写で自爆した『ジョゼ虎』と比して、横臥してるショットなので無問題)、相対的に可憐さと裏腹の(本人の自覚ぬきに)邪まで害悪を撒くような超存在。だからおれは大好きなんだよ。よくある、「文芸なら、芸術なら、役柄の上で必然で自然であれば、私脱ぎます!」な、マジティピカルのケース。でもさ、おれ疑問呈したいんだけど、文芸でも映画でもこの日本女性の描かれ方ってどうなん。フィクションとはいえ、フックとしてのキャラだとしても、ぜんぜん実情に迫ってないようなきがするのは、こんな作品がいまだに(平成25年)撮影されているということは、おれの意見がマイノリで、云わば都議会の野次みたいなものだからなのでしょうか。さらに、石切り場の発破事故とか、拠るあの幻聴とか、あれどうなん。昨年秋に八戸の採石場見学して、あまりの距離感とロケーションの巨大さから、現場作業だとか作業者の生活とか、想い入る事は困難だった。だけど、本作のように素敵なダイナマイトスキャンダル的な特殊性まで与える必要はないのでは。廃炉作業員だって、遠洋漁業の漁師だって、トマト農家だって、やくざだってあんま関係ないんじゃないの・・・。とはいえ、エロもエロでお楽しみ袋的にきっちり見せきるし、もっとたこやき返すみたいに男闘呼組の内臓プスプス刺してひっくり返してほしいという欲求が沸き起こるが、(これまたティピカルな夏)祭りのシーンにあって、概ね満足じた。

そこのみにて光輝く(2013)

(17日、フォーラム3)
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